【絃外有音:003】                         一四・四・仲九

――こうして役者は活き抜くようだ

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年譜とは、ある人物の生涯を事細かに記録し、歴史的に位置づけようと編まれる。だから、時に年譜の行間には、その人物の息遣いが漏れ伝わってくるような気がする。

梅蘭芳(1894年から1961年)といえば誰もが知っている京劇の大看板。おそらく日本において、中国語音で呼ばれる唯一の中国人といえるだろう。日本では毛沢東は「モウ・タクトウ」で蔣介石は「ショウ・カイセキ」。胡錦濤は飽くまでも「コ・キントウ」であり習近平は「シュウ・キンペイ」。余程のひねくれ者でもない限り「シー・チンピン」とは呼ばない。「マオ・ズートン」やら「チアン・チエシー」やら、ましてや「チェン・カイシェック」では、毛沢東や蔣介石が醸しだすイメージにそぐわない。

だが梅蘭芳だけは「バイ・ランホウ」ではない。誰が何といおうと、やはり飽くまでも、断固として、脇目もふらず、右顧左眄せずに、徹頭徹尾・終始一貫・猪突猛進・原則貫徹・一貫不惑にして「メイ・ランファン」でなければならない。なんとも不思議だが。

ここで取り上げる『梅蘭芳年譜』は、メイ・ランファンの生涯を「第一階段 清朝時期(1894~1911)」「第二階段 中華民國時期(1912~1948)」「第三階段 中華人民共和國時期(1949~1961)」に分け、詳細に追ったもの。この本で興味深いのは1994年に出版されたにもかかわらず、全ページが現行の簡体字ではないことだ。繁体字で通称される正字で記されているから、それだけに、記述内容までが落ち着いて見え、年譜に不思議な威厳を持たせているようで、これまた、なんとも不思議な感じがする。

試みに「1949年(己丑)56歳」の頁を開けてみると、「春、上海解放前夕」との記述に続き、共産党が梅が信頼する演劇人に梅の自宅を訪問させている。目的は、上海で新中国の誕生を迎えよとの説得にある。つまり共産党政権に合流せよ、との統一戦線工作ということだ。もちろん梅は「欣然同意」した。イデオロギーではない。役者として生き抜く道を毛沢東=共産党政権に賭けた。敗軍の将である蔣介石に従って台湾の逃れたところで、どうせロクな役者人生が送れるわけがないと踏んだに違いない。役者として役者なりの風険投資(ハイリスク・ハイリターン)を狙った、ということだと思う。

じつは国共内戦は戦場で華々しく戦われていただけでなく、一方で中国を代表する人物、いいかえるなら内外に大きな影響力を持つ人物を取り込むための暗闘も展開されていた。いわば著名人争奪戦である。より多くの著名人を囲い込めば、それだけ多くの国民に共産党への共感を呼び込めるではないか。あれほどの著名人が賛同しているのだから、あんな人までが支持しているのだから、国民党に較べ、共産党はより《マシな政治》を進めてくれるだろうというイメージ戦略である

たとえば留学先のアメリカからプラグマティズム哲学を持ち帰り中国に広め新文化運動を起こし、学術界の垣根を飛び超え、政治・外交にも大きな影響力を発揮することになる胡適だが、彼は厚遇で迎えるとの毛沢東の誘いを振り切るかのようにして、蒋介石の将来に賭けた。役者ではないが、梅の芸に華やかな改良を加え、梅の至芸を世界に認めさせた最大の功労者である斉如山もまた、台湾へ。

だが京劇の生き字引ともいわれた蕭長華以下、程硯秋、麒麟童こと周信芳、馬連良、譚富英、袁世海など数多の名立たる京劇役者は、共産党の呼び掛けに応じ「欣然同意」し、大陸に残った。それが後の文革で自らの不幸を招くことになったのだが・・・。文革はまだまだ先のこと。なんせ何でもありの中国大陸である。誰だって、一寸先は闇だ。

 

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中華人民共和国の成立から半年ほど遡った1949年4月某日。まだ北平と呼ばれていた当時の北京で、京劇関係者たちは毛沢東と共産党中央の北京入城を歓迎するため、毛を筆頭とする共産党幹部を京劇公演に招いたのである。

時の流れに敏感でなければならないのは、芸人もまた同じ。新しい権力者に靡いたとして、誰に後ろ指を指されるわけでもない。いち早く彼らは、新しい権力者に対する“恭順の意”を示したかった。いや、新しいパトロンを求めようとしていた。どちらにしても、超弩級の戯迷(芝居狂い)たる毛沢東の性癖を十分に読んだうえでの謀だったはずだ。

その日の夕暮れ時だった。いつもより早めに夕食をすませた毛沢東は、北京郊外の景勝地で知られた景山の西南にあり、かつて孫文も住んだといわれ双清別墅の庭を散歩していた。自らの命令で党中央と軍司令部を置いたこの別荘で、敵のスパイや政敵の陰謀から身を守るために配備された百人ほどの精鋭公安部隊に囲まれて、国共内戦の最後の勝利、いいかえるなら“新しい中国”の建国の瞬間を待っていた。

庭の一角にある六角形の亭子を背にして南側を向けば、池の向こうに防空壕が見える。毛沢東が住むというので、華北軍区の工兵隊によって掘られた防空壕の入り口には、「毛主席万歳」の5文字が刻まれていたというから、そこだけが「庭園の中の庭園」と形容される双清別墅には相応しくないようだ。たしかに「庭園の中の庭園」に防空壕とは、なんとも野暮な取り合わせだが、当時、国民党軍の空からの攻撃も十分に考えられていたからこその措置だっただろう。

内戦開始直後の46年7月の兵力をみると、国民党軍の430万人に対し共産党軍が120万人。これが1年後の47年7月には373万人対195万人に接近し、49年6月になると約115万人対400万人に逆転している――このように地上兵力では圧倒的優位に立つことになった共産党軍だが、いまだ航空兵力は貧弱であり、北京の制空権を抑えたてはいなかったに違いない。

 

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毛沢東は亭子に向かおうと池の畔を歩いていたのか。防空壕を覗き込んでいたのか。遠くに霞む北京の街並に目をやっていたのか。

その時、彼の頭の中を過ぎったのは南京からやってきた国民党代表団との和平交渉の進め方か。逃げ場を失った政敵・蔣介石の処遇か。それとも今夜の演目か。

やがて毛沢東は警護の兵士に向かった、

「今夜は京劇にいくんだが、わかっているかい」

「はい、承知いたしております。すべて手配は完了ずみであります」

「何時に出発だ」

「なにぶんにも道路事情がよろしくありませんので、かれこれ一時間ほどみていただきたいと思います。六時半の出発ですと、予定通りの到着となります」

その返事を待って、毛沢東はゆっくりと歩きだす。そして、なにかを考え込むかのようにポツリと「京劇見物も仕事だ」

「京劇見物も仕事だ」――この時、毛沢東は京劇見物に行きたくなかったわけでも、義理や義務で嫌々ながら客席を暖めようとしていたわけでもない。いや、それどころか心躍らせていたはずだ。にもかかわらず、この台詞。おそらく毛沢東はウキウキと高揚する心を身近に在って常日頃から顔を合わせる兵士たちに気づかれたくなかったのではなかろうか。

この季節の北京では、柳の種がはじけ、中から白い綿のような柳絮が飛びだし、ふわふわと街を舞いはじめる。・・・戦火の止んだ北京の、暮れなずむ大通りを、前後を厳重に守られながら疾駆する車。後部座席にどっかと座る毛沢東。やがて車は長安大戯院の前に到着する。車から降り立った毛沢東は、右手を軽く上げて会釈する。中国共産党を率いる毛沢東とは、さて、いかなる人物か。

満面笑みを浮かべながら半ば緊張しつつ腰を屈め毛沢東の前に進み出る京劇の名優をはじめとする興行界の面々。この光景を遠巻きにして眺める共産党幹部。その周りを十重二十重に囲む北京市民。彼らの肩の辺りをフワフワと舞う真っ白い柳絮――こんな光景を49年4月の北京でみることができたら、政治の都である北京の新しい皇帝としては、これ以上の舞台設定はなかったに違いない。

毛沢東に用意されていた席は二階真正面最前列のロイヤル・ボックス。もはや彼は昨日までの当たり前の戯迷(芝居狂い)ではなかった。

やはり政治には、芝居がかったカッコイイ舞台装置が必要なのだ。ハデに可視化されてこそ、政治なのである。

 

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この夜、毛沢東は梅蘭芳が虞姫を、劉連栄が覇王項羽を演じた《覇王別姫【はおうなみだのわかれ】》に我を忘れた。朱徳、劉少奇、周恩来、任弼時ら“革命の元勲”を左右に従え、長安大戯院の二階正面中央のロイヤル・ボックスに陣取る。中国は、やっと戦争のない時代を迎えようとしていた。国民党との内戦にほぼ決着がつき、革命成就は目前だ。もうすぐ天下は我々の、いや俺のものになるのだ。

抗日戦争中は髭を蓄えることで日本軍の軍靴に蹂躙された中国で京劇を演ずることを拒否していた梅蘭芳が、抗日の思いを託した髭をきれいサッパリと剃り落とし、心機一転、何年かぶりに舞台を務めるという。数年の空白は彼の芸を衰えさせたのか。それとも以前にも増して艶やかな舞台を見せてくれるのか。

大げさではなく、全中国が固唾を呑んで梅の登場を待ったことだろう。

客席、舞台、楽屋を問わず、劇場全体の全神経が舞台下手の九龍口に注がれる。やがて梅が扮する虞姫が登場すると、劇場全体は水をうったように静かになる。虞姫の霊が乗り移ったとしか思えない梅の嫣然たる姿に、誰もがことばを失う。一瞬の後、客席の沈黙は歓喜に変わる。極度の緊張から解き放たれ、劇場全体は歓声と歓呼に沸き立ち、大向こうからの「叫好」の連発に揺れる。毛沢東もまた、この興奮の渦中で梅の至芸を存分に楽しんだはずだ。新しい中国、社会主義王朝の新しい皇帝として・・・。

かくて新しい皇帝は興奮気味に、そして厳かに口を開く。

「そうだ、これに勝る舞台はない。この人こそ新中国の芸術家であり、政治上の地位を持つべきであり、人々の賞賛と尊敬を受けるべきだ。新中国が成立した暁には、我が国の芝居は必ずや大いに発展しうるし、新中国の建設におおきな働きができるだろう」と。梅蘭芳に象徴される京劇が、新しい皇帝から勅許をえた瞬間だ。これで社会主義の新中国でも、京劇を演じ続けられることになった。

それから3ヶ月ほどが過ぎた49年7月2日から19日まで、北京では「中華全國第一次文學藝術工作者代表大会」が開催され、梅は会場で「毛澤東、朱徳、周恩来等領導人」と会見している。

共産党からするなら、まさに統一戦線工作の総仕上げ。成功祝賀ということだろう。大会成功を祝って「35個文藝團體」が芝居を演じているが、梅もまた十八番の「覇王別姫」を引っさげて舞台に立つ。やはり祝賀行事ときたら京劇しなかい。

その日、白の開襟シャツの毛沢東は客席一階の前から5列目の真ん中の席に座り「興致勃勃」と梅の至芸に酔い痴れた。芝居が終わると毛は他の客と共に席から立ち上がって拍手に継ぐ拍手。そこで梅は「舞台に出た途端、毛主席を認めました。本当のことをいいますと、この演目を1000回以上も務めていますが、どの舞台も今日ほどは心地よく務められたことはありませんでした」と、一世一代のヨイショ。強力なパトロンを得た瞬間である。新しい皇帝に恭順の意を示す。新しい時代を生き抜くためには致し方のないことだろう。

時代に翻弄されながらも権力に擦り寄る役者の真骨頂が、年譜の行間から時に顔を覗かせる。役者の舞台は、芝居小屋の中だけにあるわけではない。人生という舞台でもまた役者を演じ続けなければならなかった。まさに活到老 演到老・・・

 

 

■基本資料:

①『梅蘭芳年譜』(王長発・劉華 河南大学出版社 1994年)
②『東方巨人 毛沢東』(李捷・于俊道主編 解放軍出版社 1996年)