【絃外有音:002】                         一四・四・初一

――芝居が政治なら、政治は芝居・・・だったんです

『禁戯』(李徳生 百花文芸出版社 2009年)

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昔から、中国の民衆にとって芝居は何よりの愉しみだった。集会が固く禁じられた王朝政権下でも、年数回開かれるだけの廟会(=縁日)だけは例外であり、廟会の華たる酬神戯(=奉納芝居)見物に託けて人々が群れ集いうことは許されていた。そこで吃・喝・嫖・賭・抽大煙は自由だった。だから近郷近在からワンサカと人が集まった。かくして芝居は、彼らを騙して手なずけようと考えた権力者や革命家にとっては簡単で便利な道具、つまりプパガンだとなる。

権力者が勧善懲悪芝居を見せて民衆の教化・訓致を目指そうとすれば、世の中をデングリ反そうと考えるヤツラは悪党が主人公の芝居を演じ、悪党こそが人民の苦しみを救う義民だと鼓吹し叛乱をけしかける。舞台においても、上に政策あれば、下に対策がある。

権力を握るまでも、そして政権に就いてからも芝居を使って思想を統制し、政敵潰しに躍起となっていたのが毛沢東だった。

役者は勧善懲悪から卑猥淫蕩まで、捨身救国から卑怯売国までを、舞台の上に自由自在に縦横無尽に表現してしまう。まあ、それができなければ虚実皮膜の世界を生きている一人前の役者とは言えませんが。背筋をピンと伸ばして見なければならない勧善懲悪を見飽きると百花繚乱の卑猥淫蕩を、手に汗握る英雄もいいが時には唾棄すべきほどの卑劣漢の残忍極まりない姿も見たくなるもの。いわば非道徳・反社会的芝居こそが芝居見物の醍醐味というものである。

たとえば梅蘭芳の当たり芸で知られた《貴姫酔酒》にしても、元来は卑猥で淫蕩なものだった。それを中華人民共和国建国後、梅蘭芳が「不健康な部分を取り除」くという改編をしたことで、面白くも可笑しくもなくなった。玄宗皇帝にフラれ、間男役の安禄山にも捨てられ、女盛りの貴姫が疼く心を酒と宦官とに紛らわす。これを「不健康な部分」というのだろうが、この部分の絡みがあるからこそ、舞台から客席に淫蕩な風が吹き、客席も沸こうというもの。客だって「好!」を連発することになる。

とはいうものの、調子に乗って度が過ぎると芸は下品に奔り、社会の良俗に反し、社会秩序を乱してしまう。そこのとこのサジ加減が難しいのだが、そこで封建王朝時代から現代まで、政権は自らの絶対的正しさを貫き社会の規範を守るため、“反社会的”な芝居を禁止してきた。これを禁戯という。

この本は清朝後半から現代まで、加えるに台湾以後の国民党を含む歴代政権が指定した180本ほどの禁戯を挙げ、その粗筋と主な公演記録、それに禁止理由を記したものである。

ここで興味深い例として、数奇な運命に翻弄された《四郎探母》を挙げておこう。

 

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この芝居は宋朝を侵略する異民族に対し、数世代を挙げて抵抗した楊家の奮闘と悲劇を綴った『楊家将演義』を種本とする。

戦闘中に敵に捉えられた楊家の四男である楊四郎は心ならずも敵の王女と結婚することとなった。王女の旦那を附馬という。つまり彼は漢族でありながら敵の軍門に下り、あまつさえオメオメと蛮族王朝の附馬に成り果てた。まあ漢族民族主義からいえば、正真正銘の紛うことなき漢奸、つまり民族の裏切り者となったわけです。

15年が過ぎ、一児を授かり不自由のない宮廷生活を送っていた彼の耳に風の便りが届く。益荒女ぶりも凛々しい母親が一族を率いて最前線に陣を布いたというのだ。

なんとしても母親の顔を見たい兄弟や元の家族に会いたい。漢族の妻とヨリを戻したい、な~んて不届きなことは考えなかっただろうが、この辺が楊四朗の女々しいところだ。母親の佘太君の爪の垢でも煎じて飲め。

夫の苦衷を知った妻である王女は、軍律を犯してまでも四郎の願いを叶えてやる。その後の展開はさておき、この名狂言の問題は敵に降り、おめおめと生きながらえている点にこそある。

日中戦争当時、民衆は四郎を「不忠不孝、敵に降った叛徒だ。侵略者との死闘の最中に敵前逃亡し、敵である蛮族の王宮に囲われ、しかも敵の王女との間に子供まで。国家・民族を蔑ろにするも甚だしい不埒な野郎」と蔑み憤慨し、かくて「民族意識が極端に欠乏した」ということで、当時の中国政府、つまり蔣介石蒋率いる国民政府はバッサリと上演を禁止してしまった。

国共内戦に敗れて台湾に逃げ込んだ後も禁止。理由は大陸から命からがら逃れて来た外省人に里心を起こさせないため。大陸反攻・打倒毛匪を唯一最大の悲願としていた蔣介石が最も恐れたことは、外省人の大陸反抗の闘志が萎えることだったようだ。まあ芝居程度で萎えてしまう闘志なんて、たかが知れてますが、ね。

だが75年、宿敵である毛沢東の76年9月の「去見面馬克思(死)」を見届けることなく、蔣介石が「去西天(死)」んでしまった)。それから3年が過ぎ、大陸で鄧小平が毛沢東政治を骨抜きにした改革・開放の大号令を掛けた78年、台湾では台詞や演出に些か手を加えながらも上演が許された。“蔣介石の怨念”から台湾が解放された瞬間だった。

一方の共産党政権は延安時代から厳禁。政権樹立後は直ちに「有害芝居」に指定する。56年の自由化によって上演が可能になったが、57年3月8日の全国宣伝工作会議において、毛沢東は「『四郎探母』は、まだ上演しているのだろうか『四郎探母』の中の辺境国〔遼〕の蕭太后は、契丹族だろう。おそらく漢族はちょっと戸惑うのではないか。は、は。郎は漢奸だろう」の一言で、敢え無く上演不可。

以後、反右派闘争では四郎は「国に反し敵に投降した」と見做され、文革では「叛徒、反革命の反動芝居」とやり玉に挙げられ厳禁。改革・開放に踏み切った直後の試演は、幹部の横槍が入り上演自粛。80年代後半になって、やっと上演が可能となった次第だ。

中国では芝居は政治で、政治は芝居。革命家も政治家も、とどのつまりは理想を語(騙?)る役者なんでしょうか。このカラクリに引っかかってはなりません。呉々も。

 

■基本情報:

①『禁戯』(李徳生 百花文芸出版社 2009年)

②『毛沢東の秘められた講話(上下)』(ロデリック・マックファーカー+テイモシー・

チーク+ユージン・ウー編 徳田教之+小山三郎+鐙屋一訳 岩波書店 1992年)

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